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shifa334をはじめとするツイのまとめや補足 http://shifa410.web.fc2.com/ 放置しすぎた

たぶん頭が一番回転していたときの文章

なんだかんだ自分の紡いだ文章はいとおしくて

ワードファイルのままだと埋もれる気がするので自分で転載します。高校3年生の時、盲目の写真家だったかな?に関しての文章を読んで、感想を求められたときに書いた下書き的な、メモ的な文章です。

 

 現在、世界中で叫ばれているのであろう情報化社会に生きる私たちが、インターネットやテレビ網を伝ってやってくる「映像」に触れない日があるのだろうか。それ以前のことに思いを巡らすにしても、カメラで写した「写真」、もしくは人によって描かれた「絵」「図」なども「映像」だとすれば、「映像」というものは如何に私たちの生活に欠かせないものであるかということが分かる。

これらの創造された映像のほとんどは、「他人に見られることが前提」となっているのではないだろうか。もちろん、ビデオカメラなどが家庭にあってもおかしくない時代であるから、自分一人のために、「映像」を創る人がいないというわけではない。しかし、人々に娯楽を提供したり、親しい人と思い出を共有し記録するためだったり、説明をする際の手助けのためだったりと、映像は人と人とをつなぎ、情報共有を円滑にする。プロはともかく、一般人にとっても、創り出したものを他人に見て貰うことは、歓びが伴うものである。以上を考えると、この世に産み落とされた映像は、他人の視線を無意識にでも感じながら創られたものだと言えそうである。

 

さて、この文章に登場した盲目の写真家ユジュン・バフチェルであるが、彼が写真を撮影する際の状況を整理してみる。

一つ目は、盲人でも一人で扱えるような、カメラの“自動化の技術”(オートフォーカス自動露出)の進歩。

二つ目は、音、匂い、手触りといったような“撮影したときのもろもろの印象”。 たとえば、手触り。暗闇の中へ、撮影者である彼自身が光を当てていくことで、自分の皮膚に当たる温かさから光を調節することが可能となる。これが、暗闇という石を光で刻んでいく、「光の彫刻」だ。

三つ目は、「見えた」ものを彼に伝え、”イメージを言葉で説明してくれるだれか”の存在である。ここで想起しなければならないのは、“彼のイメージ理解は、被写体の、あるいは第三者の目を通しての理解”であるということだ。誰かの目を通ったイメージは、その誰かの中で言語に置換されたのちに、バフチャルの元へとゆく。その言語はバフチャルの中で脳内イメージへと再構成され、撮影したいと思っている理想のイメージと比較し、それに近づけていく、ということが繰り返される。そしてこの三つ目が、彼の写真を本質的なところでもっとも支えるものである。

 また、以下に彼の空間の把握方法をまとめる。彼は、モデルとの距離などを、対話を繰り返すことによって把握する。ここから、彼が空間を“光でなく音によって”把握しているということがいえる。また、彼は空間を時間化してとらえる。幼いときの空間の記憶から、時間と共に逆算して今の空間をつかむ。或る時刻における空間を切り取ったものが写真だとすれば、その世界の時空は、あまたの写真の連続体であるととらえることも出来るだろう。だから、彼にとって写真を撮ると言うことは、今の空間をとらえる(=触る)ために時間を止めて触れるのである。言い換えれば、バフチェフは、”空間の触知”をしている。(彼は、空間を“光でなく音によって”把握する。)彼にとって、時間とは空間から発展させたものであり、空間の触知をしているということは、“時間に触ること”にほかならない。

 こうした条件の下でシャッターが下ろされて、できあがってゆく写真であるが、その写真そのものは、彼なりに認知・把握したはずの空間がフィルムに定着された瞬間に”ツルツルとした正面はそれ自体何も語りかけない”、盲人の彼にとって認知できない記録である。これは、バフチェフにとって、経験した情景との別れ、いわば「風景の埋葬行為」だ。

しかし、その写真自体は晴眼者の他人たちによって見られる。その他者の存在が、彼が撮影した写真の成立を支える。そして同時に、彼の写真を見ることは、私たちが、彼が「見た」暗闇の世界に誘われることだ。引き込まれることだ。

 ここで、後半で触れられたオルフェウスの神話から、バフチェルの撮影行為を整理してみる。神話では、妻・ユーリディスが蛇に噛まれ死ぬ。これは<一時的な死>である。その後、オルフェウスは死の国から妻を連れ戻しに行く。これは<再会>である。これらを当てはめていくと、彼と写真にする風景の関係から言えば、シャッターを切ることが<一時的な死>、そして他者の言葉によって認識することは<再会>と位置づけられよう。また、彼と世界の関係からいえば、盲目となったバフチェルは視覚から世界の情報を知ることが出来なくなって<一時的な死>を迎えるが、撮影した写真を他者の言語から把握することによって現時点での世界を彼なりに把握することが出来、そこから時間経過を想起することによって”過去を生き直す”ことができる。これは、彼と世界の<再会>である。

 しかしここからが本質的な似通いである。オルフェウスは、暗闇の中を前進する。振り返ってはいけない。背後から受け取れるのは、後ろを歩くユーリディスの声だけである。其の声を元にして、イメージを召還する。そしてここでは、オルフェウスはバフチェルであり映像の創造者であって、ユーリディスはバフチェルの写真を見る私たちであり、映像を受け取る者なのである。

このたとえと、バフチャルの一連の撮影行為から取り出すことができそうな「映像の可能性」を考察すると、「映像を介して、人は感覚器官を再構成できる」といえそうである。バフチェルは、視覚情報の欠如を他の感覚情報で補っている訳ではなく、感覚情報の統合・処理をしている。同じように、私たちも、その映像に向かっているときに、持ちうるすべての感覚を注ぎこむことができるとしたら。目だけで判断しているときとはまた違った様相が想起されるのではないだろうか。そのとき、もはや映像に向かっていったいわゆる五感は、人間が勝手に分類した枠を自ら壊し、新しい感覚の集合体へと変貌する。しかしここで注意せねばならないのは、どんなに受け取り側が全神経を集中させて映像に向かっていったとしても、そこで得られるのはあくまでその人自身が見ることの出来るイメージであり、それが映像の創造者が伝えたかったイメージと一致することは不可能であると言うことである。私たちは、創造者の創造物を、自分の受容器を通して見るしかない。一人一人の受容器が違う中で均一なイメージを配ることは到底不可能であるし、そもそも映像が伝えきれる世界の情報は限られているので、その映像が創造者の理想とも限らないのである。これが、映像の限界である。

 映像の創造者たるオルフェウスの視線を、後ろにいる私たちが直接感じることは出来ない。暗闇の中を前進する彼が何を思っているのか分からないままに、彼について行くしかないのである。不安も伴う。それでも、ついて行かねばならない。そうしたときにすがりつけるのが、彼の創った映像である。この映像を、感覚器を総動員して見ようと、わかろうと努力する。これこそが、その映像を信頼することなのではなかろうか。

 「一般化された盲目状態」にある世界に住んでいるわたしたちは、誰のまなざしによって創り出された映像かも分からないままに大量の映像を大量に処理する。そこに感覚総動員の余裕はない。目以外の感覚器を麻痺させているに等しい状態である。このまま私たちが大量受容大量処理を続けていくならば、それはその映像を信頼しているフリに過ぎず、そこに高尚な感情は生まれないのである。